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STYLE  過去・現在・未来の様々な視点で堺の持つ魅力を発掘/検証/企画/提案

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間の間の話 vol.02「ゲスト:江弘毅さん」前編

2017年3月16日にSAKAINOMA cafeで開催された
第2回目の『間の間』。
ゲストは、編集者の江弘毅さん。
今回、江さんが『有次と庖丁』という著書を出版されたことから、
伝統産業とまちづくりをテーマにお話ししてもらうことになりました。
京都の超有名ブランドである有次と堺には意外な関係が…。
お楽しみください。

 

 

───江さんと間宮さん

江さんの紹介として一番わかりやすいのは、
おそらく元・Meets Regionalの編集長という経歴だろう。
関西の街と店の魅力を伝え続けてきたMeetsの創刊は1989年。
創刊当時江さんは副編集長。
1993年から2006年まで編集長を務められ、
その後出版社を立ち上げる。
現在は、編集者・著述家として活躍し、多忙な毎日を送っている。

間宮
2025年ほど前、まだネットはおろか、
まちっていう言葉の概念もない時代。
だんだんまちにお店とか、にぎわいが出てきて、
それが一つの文化になるつつある頃にMeetsは創刊されました。
僕たちは、当時これを見て過ごしてましたね。」

江さんは本、間宮さんは建築で
まちににぎわいを作ってきた。
お二人はそんなころからのお付き合いだそう。


「間宮さんとの出会いは、僕の先輩がカフェをやるときに
その空間を間宮さんが手がけられたのが最初です。
SAD CAFEってぶっ飛んでる名前ですが。
イーグルスの曲名なんですけども。」

当時、東京資本のお店が関西に進出してくるたびに
大阪のまちの人は、「ふ~ん」とどこか冷めた視線を送っていた。
しかし、間宮さんの作るお店は、
それとは全く違う受け入れられ方だったと江さんは言う。


「間宮が今度新しいカフェやりよんねんな。
で、人が集まる。
それは、ビストロが流行ると言うのとは違うんです。
何かのジャンルが流行るのではない。
なぜなら、間宮さんの作る店は、全部違うからです。
でも、間宮の店と分かる。
気づけばそこらじゅう間宮だらけになってましたよ。笑」

間宮さんが店を作ると、
江さんはそれを本で紹介したり、マップを作ったり。
間宮さんの著書も江さんが編集を担当するなど、
二人は違う分野ながら互いに刺激しあってきた間柄だ。
江さんが生まれたのはだんじりで有名な岸和田。
そんな岸和田がここ20年くらいで変わってきているそうだ。

 

 

───人が仕事をする場になってきた

岸和田城下のまちとして栄えた岸和田。
今あるお城は、石垣は昔からのものだが、天守閣は戦後建てられたものだ。


「これ紀州街道なんですけど、こういう案内板ができてから、
僕らもなるほど岸和田ってそういう町やったんやって
分かることありますね。
例えばこの近代建築は元銀行なんですが、設計が渡辺節やったりします。」

江さんの言う岸和田の変化とは、一言で言えば、
「岸和田で仕事が回る状態になってきた」ことだ。


「例えばだんじりの彫刻なんかは、
岸和田以外にもだんじりを復興しようとか新調しようという動きがあって、
岸和田のだんじり屋はここ20年くらいかなり増えてますね。
だんじり彫刻の賢申堂は、まちの中に作業場を作りましたが、
彼らがまちの中で仕事をして、その近くの飲食店で食べて、また仕事に戻る。
消費生活じゃなくて、そこで仕事が回っているっていう
実生活とのリンクが足腰強い感じかな、と。」

外からの消費を促すというよりも、地元に暮らす人が
その場所で仕事と生活をしているというのが
ここ20年で岸和田に起こった変化だという。

 

 

───有次さんの話

間宮
「江さんは、Meets以外にも今みたいにだんじりとか伝統産業とか
いろんな顔があって、SAKAINOMAを作った時からいつきてもらおうか
と思ってました。
今回の著作『有次と庖丁』も最初入りが、
きつねうどんとたぬきうどんが大阪と京都でどう違うか
みたいなことから始まっていて、すっごくおもしろい。
堺もそういう切り口のおもしろさとかウマさみたいなものを
学んでいく必要があると思っています。」


「有次さんの話っていうのはめちゃめちゃおもしろいんですよ。
有次さんは、刀鍛冶なんですけど、刀打ってない。
彫刻掘るやつとか弓作るやつとか、小刀なんです。
今の18代目の方が偉い人で、
(これまでの歴史で)ウチは刀打ってきてないん違うやろかと。
ウソやと思うって。」

江さんの話では、幕末の戊辰戦争で刀が必要になり、
いろいろな武将が地方から優秀な鍛冶屋を連れてきたそうだ。
そういう流れで、広島で村上水軍の刀鍛冶であった
沖芝さんという鍛冶屋が京都にきて、
そこで一緒にやってたのが有次さんだったそうだ。


「京都に来た後、廃刀令になって仕事がなくなった沖芝さんは、
堺に来て、そこで庖丁鍛治を始めることになるんです。
庖丁鍛治なんですが、その製法は日本刀を作る製法で、
本焼き庖丁と呼ばれるんですが、その技術が非常に高い。
そこから有次さんは、ずっと沖芝さんに出してるんです。」

京都の有名な庖丁ブランドの庖丁が実は
メイド・イン・堺なのだという。
昭和4年に昭和天皇が京都で大典された際、
大阪の割烹の技術が一気に京都に流れた。
割烹は、客前で庖丁を引くのだが、
その中で有次さんの庖丁は大変綺麗だと評判だったそうだ。
言うなれば、堺で作られた庖丁が京都の割烹文化を支えたのである。

 

 

───消費ではなく、必要なものが発展した堺


「堺の庖丁は刀関係ないですから。
秀吉の時代からのタバコ庖丁、
元禄時代の鯛を捌くための出刃包丁ですとかね。」

間宮
「堺は真鯛は一番美味かったらしい。」


「そうです。
与謝野晶子さんの叔父さんは[五郎鯛]という魚問屋を
営んでいました。彼女はそこに預けられていたそうです。
堺は鯛がうまいから越してきたと。
鯛を捌くための出刃庖丁は元禄時代にはもうあったそうです。

間宮
「庖丁っていうのは生活に必需な道具で、
美味しいものがあったことで道具が発達したっていうことやね。
で、まちが栄えていったという。
消費ではなく、必要だから発展していったっていう
隠れたところで堺はやっぱりすごかったんやねぇ。」

 

 

───分業とは職人同士の技の見せ合い


「鉄砲も分業制ですね。
ヨーロッパの10年分の鉄砲を日本は1年で製造したそうです。
それを可能にしたのが分業です。
今シマノの自転車も分業ですけど、堺の庖丁もそうなんですよ。」

鍛冶・刃付け屋・柄。
多くの地域ではそれぞれの工程を全て1つの製造元で
一貫製造するが、堺は分業制をしいている。


「そうすることによって甘えがないんです。
お互い技の見せ合いですから。
だんじりもそうなんです。
一旦大工が組んだものをバラして彫りモンするんです。
とてつもない執念と技術です。」

 

 

───堺は気質がおもろい

江さんに堺のおもしろいと思う部分を聞いてみた。


「気質がおもろいですね。
職人の話を聞くと「堺はな、よそは知らんけど。」って言います。
自分たちのやり方がグローバルスタンダートやと思ってる。
あとはコミュニケーションが陽気ですね。
アーティストみたいに「う~ん」って詰めてる感じじゃないですね。
鼻歌交じりで。
岸和田もそういうとことありますけど。笑。」

間宮
「堺もですけど、岸和田のそういうよそにはないものっていう
土着性が、江さんのMeetsのルーツになってるかもしれないですね。」

(後編に続きます)

 


Author
古島 佑起

ことばとデザイン主宰。グラフィックデザイン、コピーライティングを軸に、行政、教育、芸術・文化、医療、飲食、農業など幅広い分野で、広告制作やイベント企画、商品開発などを行なう。近年は大阪・八尾のものづくりの魅力を発信するプロジェクトYAOLAで精力的に地域と関わる。

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